| ◆ 温泉の歴史・温泉成分 ◆ |
【鷺の湯温泉】
鷺の湯温泉は島根県安来市古川町にある温泉で一名古川温泉ともいっている。
この温泉の由来は遠く天文の昔にさかのぼるが、この温泉の変遷を考えて見るためには一応この辺の地勢を明らかにしておかねばねならない。
月山冨田城のあった冨田の壮は南方の奥地から北方の中の海に注いでいる冨田川(後飯梨川)の流域に開けた盆地地帯で尼子氏の極盛期には陰陽十一ヶ国の首都として栄えた所である。
その頃の城下町は月山の西麓から独松山の西麓にかけ南は福頼から北は赤江の海岸まで延々二里半(十キロ)にわたって六百七十九ヶ町が展開され、その城下町の西側に城下町と平行し冨田川が南北に貫流し然も冨田川には中の海から舟運の便があった。
その頃、冨田城下町の中に早くも湯町という町のあったことが伝えられている。この湯町が実は鷺の湯温泉の起こりであったのである。
天文の頃、独松山の西麓にあった現在の太平寺、城下町のある地点にきまったように白鷺が舞い下りてきて静かに立っているのが見受けられた。どうもその白鷺は脚に傷を受けているらしい。人々が不思議に思ってその場所に行って見ると、そこには温泉が涌き出ていた。
白鷺がこの温泉に足を浸していると何時しかその傷が癒えていくのである。さては外傷に良く効く霊泉だろうというので、そこを発掘してみると果たして立派な温泉が涌き出てきた。
時は戦乱の世とて、戦に傷ついた侍兵も少なくない。然もその場所は冨田城から北方二キロあまりの近い場所だったので、そこは何時しか湯町として発展するにいたった。鷺の湯と言うのは、このいわれによって後世名づけられた温泉の名称である。
然し、この温泉には幾度においてその興廃があった。その興廃の最大原因となったものは、この地に訪れて来た幾度もの洪水とそれによって冨田城下町が潰されるに至った事とである。
冨田城下町と平行してその西方を流れていた冨田川は上流から流し出される土砂によって次第に川床が高くなり徳川時代の初め頃になると暫く天井川の様相を帯びるに至った。
かようにして寛永十二年、寛永十三年と打ちつづく洪水により冨田城下町はしばしば水災くり返すようになったが、遂に寛文六年(1666年)秋の洪水は城下町を根こそぎおし流してしまったのである。寛文六年といえばその年の二月には松江藩主松平直政が六十六才で死んでいる。直政の長男信濃守綱隆は松江藩を嗣いだが弟思いの綱隆は二男近宗、三男隆政の身の振り方を考え綱隆の私墾田三万石を弟上野介近宗に一万石を右近太夫隆政に分轄して同年の四月二十九日に広瀬三万石、母里一万石が誕生することになった。
その年の秋に大洪水があり八幡神社前あたりにあった城下町の土手を突き破った洪水は一直線に月山山麓に向かって奔流し見る見る城下町を根こそぎにして独松山の西麓から能義大明神の西方へ流れ出て迂回してもとの赤江の海岸へ流れ込んでいった。
この洪水によって城下町は一戸も残さず押し流され冨田川は完全に西から東へとその川筋を変えていったのである。この天災によって当時の湯町があとかたもなく潰れていったことは言うまでもない。伝承によると、この洪水によって千軒の家屋が流出したといわれている冨田川は其の后になっても度々の洪水に見舞われ一度地下に埋没した温泉は容易に陽の目を見る機会には巡り得なかった。
記録によると次のような洪水を続発している。
寛文九年六月
延宝二年六月
天和二年九月
元録十五年八月 古川堤防が決潰し水深五六尺に及び死者も多かった。
正徳四年八月
享保十二年
現在鷺の湯温泉のあるあたりの地名を川原といっているが、これは寛文六年前まで冨田川の流れていた所という意味で昔の冨田川の西堤防が現在の電車廃道附近であり、東堤防が前土手といわれた現在の新道あたりでこの両堤防の中間に冨田川が流れていたので川原という名が残り又このあたりを古川とも呼んでいるのである。
元文四年三月広瀬藩医岡田元杏が古老の話しを手蔓に私財を投じて温泉の発掘を試みたのは実にこの川原の地内であったのである泉源を発見した元杏はおおいに喜び早速まきで(木の名称で水につけても腐らない材質)で湯壷を露天に据えつけて入浴してみた。驚いたのは附近の里人でこの寒空に露天風呂とは不思議なことだとこっそり伺ってみると冬なお温かい温泉が滾々と湯煙あげて涌き出ている。もともとそこは自分たちの田圃に近く境界も定かではなかったので我々に無断で独占するとは怪しからん潰してしまえと、そこは央ば嫉みも手伝って人糞を湯壷の中に投げ入れ折角の温泉を台無しににしてしまった。記録には岡田元杏温泉を試掘せしも功ならずとあっさり片附けている。
このようにして折角日の目を見ようとしていた線脈は不浄となって使い物にならなくなったが、これは只単に里人だけの悪戯によるのではなく、その後も相ついで続発した洪水によって折角地表に出ていた温泉がまたまた地下に埋没してしまったのである。
即ち元禄十五年八月宝暦十一年七月には古川西松井の堤が決潰し、明和八年六月、安永元年八月安政七年六月、天明二年六月、この年の洪水には新町橋が央ばから落ちて大損害があった。天明四年六月、文政三年五月、この年の洪水には古川から植田へかけて相当の死人があった。
文政十一年六月、弘化二年六月、嘉永四年九月、安政元年六月と幾度か洪水が続き、明治になってからでも、明治十九年九月二十四日夜半の大洪水では能義平野一帯の地形が一変し故老の話では元禄十五年八月以来の大洪水であったと伝えている。また明治二十六年九月14日、明治二十七年九月十一日にも暴風暴雨で大洪水となり増水度は両度七尺にも及び二十六年には町長の土手が決潰、二十七年には萱町二十四戸が流失し残ったのは油家渡辺家だけであったと言う。広瀬の町部でさえそうであったから石原の田圃は十三日間水底に没しその年の収穫は皆無となった。(宇山喜平日記)。石原の福山家が古川の地を引き払って石原の宇山喜平家(陸軍少将宇山熊太郎厳父)へ移ることとなったのもこの洪水のあとである。
鷺の湯温泉が古川地区に本格的に開発されるようになったのは、明治の終頃だと言われている。明治四十二年(1909年)三月田辺六左衛門(田辺家は要七−助蔵−六左衛門−才五郎−正雄と現主に及んでいる)が自己所有の田圃で排水工事をしていると思いがけなく温泉が涌き出て来たので温度を測ってみると四十度を越す位であった。
確かに泉脈は昔の湯町(今は冨田川)からその西方古川の方に向かって延びているので明治の中頃古川の人が冨田川を渡ろうとしたら足が沈みそこに熱い湯が涌き出ていたという話もある。だからこの筋なら何処を掘って見ても温泉は出る筈だと言うのが田辺才五郎の持論であったのである。才五郎は早速その湯を県庁へ持ち出して鑑定を受けると、その分析表は次のようであった。
| 温泉名 |
鷺の湯温泉第六号泉 |
| 涌出地番 |
島根県安来市古川町字上原五二七 |
| 泉質 |
含石膏食塩放射能泉(低弛緩和性高温泉) |
| 外観及び臭味 |
微に白濁殆ど無臭味 |
| 蒸発残留物 |
(一kg中mg数) 1,387.4 |
| イオン表 |
ph7.10 |
| 全硬度 |
357.6ppm |
| 全蒸発残留物 |
1186.5ppm |
| カルシュウム硬度 |
327.5ppm |
| マグネシュウム硬度 |
30.1ppm |
| 鉄 |
0.56ppm |
| マンガン |
0.02ppm |
| クロール |
164.4ppm |
| 硫酸銀 |
321.1ppm |
| シリカ |
48.2ppm |
| 効果 |
外傷/創傷/疲労回復/火傷/婦人病/
慢性筋肉リウマチ特に腰痛/神経痛/痛風/慢性皮膚病 |
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分析 島根県衛生研究所
よって才五郎はこの所に温泉を経営しようと考えたが土地が低かったので土上げをしようと思い福山屋敷跡(福山儀市は明治二十六年,七年の洪水の後、この屋敷を見捨て、石原の高台にある宇山喜平宅へ移転している。)の砂を無料で貰いうけ、植田の男女二百人を動員して負籠で砂を運ばせた。(田辺はこの時の代償として福山には永代無料入浴を契約した。)又湯船は荒島から荒島石造りのものを手押しで運搬させたがその時みんなは手に手に草履様のものを当て手の皮の擦りむけるのを防いだと言われている。
今から考えると転々今昔の感に堪えないが、鷺の湯温泉はこの時から今日(昭和四十七年)に至るまで実に六十四年間一度も枯渇することなく涌出を続けているのである。
才五郎が温泉を掘り出した場所は部落の土地と畦一つ距てた隣接地だったので、部落の人々は「この分なら部落共有地からでも涌き出るかもしれない。」と部落共有地を掘ってみると、果たしてそこからも凛々として温泉が涌き出た。そこで部落の人々は紙すき船を運んできて露天に据えつけそれを湯船代わりにして入浴することとなった。
ただここに困難な問題が起こったのは温泉の湧き出しが田辺個人の所有地と部落共有地との両方からほとんど同時に発見され然も両方の距離が至って近かったのでその発掘権が果たしてどちらにあるかと言うことであった。
そこで裁判所に出頭して判決してもらった結果、その権利の八割は部落にあり、その二割が田辺にあることが決定したので発掘権のことはそれで一応けりがついたのである。田辺では早速男女別の浴室を造りそれぞれに湯船を備えたが一方部落のほうでも四間五間の浴室を四つに区切り荒島石の浴槽を四つ設けて部落民の入浴場に充て又外来の入湯客にも有料で使用させることとなった。この鷺の湯の薬効は当時島根鳥取両県のうちでも珍しいものだという折紙がつけられたので一時湯治客が殺到するという盛況振りであった。
よって部落民は十人ばかりで共同出資し宿屋を経営したり休憩所を設けたりしたこともあった。当時の入湯料は一回が二銭で一日滞在しても七銭か十銭位に過ぎなかった。その後、部落共有の施設は経営上いろいろな問題が起こったので専任者に一任した方がよかろうということになり、その施設を一年契約で田辺に貸しつけることとなった。この契約はその後三ヶ年に延び、更に十ヵ年に延長され十ヵ年契約を二期続けていくいくうちに二十数年の歳月が経過し、昭和の初頭となったのである。そのうちに契約の期限はきれる、共有の建物は腐朽して来る。これでは仕方がないと言うので田辺はこれを機会に契約を解き、一切を部落に返却しようと申し出た。その時、部落の総代として足立兵右エ門は田辺才五郎と交渉し部落民は永代無料で入浴出来る権利だけを保有して、他は一切ひっくるめて田辺に売り渡すこととしたのである。
一切の権利を譲り受けた田辺は本格的に経営に乗り出し、戦時中にはこの温泉に繭を浸して繊維をとる事業も計画したが、この事業は終戦間際に施設が倒壊してそのままになってしまい、その後は温泉旅館を主体として次第に設備を強化し、昭和三十五年八月八日には株式会社さぎの湯を田辺館と改称さらに昭和三十六年九月一日には田辺館を株式会社さぎの湯荘と改称して今日に至った。
昭和二十九年飯梨村が安来市と合併して新安来市が誕生した時、安来市と田辺は鷺の湯使用権を折半する事になり安来市もこの地域を観光資源として開発に努力することとなった。
今日この地帯には、鷺の湯荘の外に竹葉、安来苑(最初は水都苑といっていたが、後松風と改称、現在では安来苑といっている)などの温泉旅館も出来、また別に昭和四十五年には安来市営による老人センターが建築され昭和四十七年十一月村上茂芳によって鷺の湯温泉観光休憩所が建設され、食堂、骨董店、休憩所、浴場を兼ね多角経営に乗り出すこととなった。
特に足立全康は昭和四十六年巨費を投じて足立美術館を建設し名画、名苑をキャッチフレーズとしてデビュー観光と共に文化施設として早くも一異彩を放ったに至った。
鷺の湯温泉は冨田川の清流に添うた古川田圃の約中心にあり南には古城跡月山を指呼の間に控え、東には独松山、西には経塚、三笠山、勝山等の山々が翠響をめぐらし、文字通り山紫水明の別天地である。
交通には最も恵まれ県道安来三次線の沿線にあるので山陰線並に国道九号線からの交通は至って便利である。
米子,安来、荒島、松江から各々バスの便利が良く全線全て舗装路であるから安来荒島からなれば約二十分ばかり、広瀬ならば五分くらいで連絡十分である。
今や日本海時代といはれ、中の海新産都市は着々としてその様相を整えつつあるこの時にあたって月山、鷺の湯、清水は一連の観光コースになっておりその中間にある鷺の湯は豊富な温泉源とあいまって最も適切な慰安休憩所であり将来益々その発展が嘱望されているのである。
| 印刷 |
昭和四十八年 |
| 発行 |
昭和四十八年 |
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非売品 |
| 編者 |
妹尾豊三郎 |
| 発行所 |
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| 発行人 |
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| 印刷所 |
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